あの部屋



あなたは、暗闇が嫌いですか?
何かが、潜んでいそうだから?
何かが、話しかけてきそうだから?
だから、暗闇が嫌い?
そう、彼女は暗闇が嫌い。




今日は、会社での飲み会で帰るのが遅かった。
今は、日付も変わった午前一時。
周囲も、静か。
地方都市の郊外ともなれば、そんなものだろう。
さらにそのはずれのほうなら、なおさらだ。
そんなところにあるアパートに住んでいる。
部屋が二つあり、それでいて家賃が安い。
でも、そんな二つの部屋のうち、一つはもう入ることができない。
そこは、倉庫がわりとして使っていた部屋だ。
もともと、特に入る必要はない部屋だったのだが、もう入ることができない。
なぜ、入れないのか。
それは、部屋の電気が付かないから。
電球を換える、ただそれだけすればいいことなのは分かっている。
しかし、この部屋の暗闇が怖い。
あまり使うことのないこの部屋、暗闇に何が棲んでいるか知れない。
話しかけてきそうで、怖い。
だから、もう入れない。
そんな部屋を横目で見る。
入らなければ、怖くはない。
いつもどおりに、シャワーを浴びる。
そして、ベッドに座る。
髪を乾かしながら、くつろぐ。
すると、何かが聞こえた。
『……………くれ』
「…え?」
ここには、私以外の誰もいない。
壁がとりたてて薄いわけでもないので、隣人の声が聞こえてくることもない。
テレビやオーディオをつけてもいない。
今のは、何だったのだろう?
不安になる。
まさか…。
『ここから…、出してくれ…』
今度は、はっきりと聞こえてきた。
聞こえてきたほうを見る。
見るまでもなかったが、どうしても見てしまう。
視線の先には、あの部屋があった。
『ここから出してくれ。この扉を開けてくれ』
やはり、あの部屋から聞こえてくる。
その低い、男のような声が、助けを求めてくる。
しかし、扉には鍵などなく、開けられるはずである。
それが、開けられないとなると…。
その声の主は、人間でないものになる。
ということは…。
恐ろしくなった。
あの部屋の「闇」が、話しかけてきた…。
あの声を聞きたくなくて、ベッドに入る。
髪が乾いていないが、気にすることはない。
『出してくれ…』
それでも、まだ聞こえてくる。
布団を頭からかぶる。
そして、恐怖に体を縛られたまま眠りについた…。


あれから、三日経った。
三日ぶりの自宅。
それまでは、彼の家に行っていた。
今日は、服がないからといって帰ってきた。
明日から、彼と同棲生活をすることにしたのだ。
帰って、荷物をまとめる。
とりあえず、必要なものを詰め込む。
それが終わって、シャワーを浴びる。
早く寝ようと思って、布団に入る。
そのとき、ケータイが鳴った。
画面を見ると、親友の番号が表示されていた。
久々だったので、話がはずむ。
電話を終えたときには、三時間が経っていた。
さあ、そろそろ寝ないと。
そう思ったとき、また着信音が鳴る。
言い忘れがあって、またかけてきたのだろう。
そう思って、出てみる。
「どうしたの?なにかあった?」
『…助けてくれ……』
「イヤッ!」
ケータイを落としてしまった。
今、電話の向こうから聞こえてきた。
しかし、間違いなく、あの部屋の声。
ケータイを手に取り、恐る恐るもう一度耳に当てる。
すると…。
『開けてくれよ、この扉を…』
今度は、電話の向こうから。
今度は、あの部屋から。
両方から、聞こえてきた。
ほぼ反射的と言ってもいいほどに、電話を切る。
切ると、少し経ってまた着信音が鳴る。
今度は、出る前に画面を見る。
そして、驚いた。
普通は、着信用の画面に、名前か番号が表示されるはずだ。
なのに、それが、着信用の画面なのだが、何も表示されていないのだ。
非通知でも、「非通知」と表示されるはずなのに。
なのに、何も表示されない。
着信の履歴を見ても、残っているはずがなかった。
怖くなって、家を飛び出した。


あれから何日も、着信音は鳴り止まなかった。
私は、彼との生活を一日早く始めた。
彼は、少し不思議そうな顔をしていたが、特に気にしなかったようだった。


そして、数ヶ月が経った。
今はもう、着信などもない。
だが、心の底にある恐怖は忘れるはずがなかった。
今後、彼との生活を続けるためにも、あの部屋の存在は邪魔だ。
今後、私自身の生活を続けるのに、あの部屋は不必要だ。
私は、あの部屋を消す決心をした。
それには、準備が必要だ。
ガス欠の車のためにと偽って、ガソリンを買った。
一度に大量に買うと怪しまれるので、別の店で少しずつ買う。
これで、いい。
私は、車にガソリンの入ったポリタンクを載せ、アパートへ向かった。
午前三時、この付近の人々はほぼ全員が眠っている。
家の明かりも、どこも付いていない。
何とかポリタンクのひとつを最上階の三階へ持っていく。
そして、なるべく音をたてずに廊下へガソリンを流す。
流しつつ、下へ降りる。
階段にも、ガソリンを流す。
同様にして、何とか時間をかけて、すべての廊下にガソリンを流す。
そして…。
「やっとできたわ」
すべての作業は終わった。
空のポリタンクを車まで運ぶ。
見つからないように、車はアパートから離れたところに停めておいた。
そして、またアパートに戻る。
あとは、ライターに火をつけて。
それをガソリンの中に投げるだけ。
これだけで、あの部屋も灰になる。
ライターに火をつける。
目の前が、赤く照らされる。
そう。
これを、投げ入れるだけ。
部屋がなくなるうれしさと、どこからか来る緊張で止まった腕を何とか動かして。
ライターは、ガソリンの海に飛び込んでいった。
目の前が、炎で赤く照らされる。
これで、あの部屋もなくなる。
もう何も、恐れるものはないのだ。
軽い足取りで、車まで戻った。




アパートは、他の三軒の家とともに全焼した。
そして彼女は、その後、彼と結婚したという。
彼女の恐れるものは、なくなった。
しかし、彼女は知らない。
あのアパートから、身元不明のしたいが出てきたことを。
その死体が、火災の数ヶ月前に死んでいたであろうことを。






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