暗き心の底で (NIGHTMARE OR REALITY)





誰でも心の底に闇を飼っているのさ。もちろん、君もね。


     カタン・・・――――
物音がした後、全てが闇と同化する。まるで何も存在しないかのように。これは、いつもの夢だ。夢だと分かっていても、夢をコントロールできないせいで、勝手に夢は進んでいく。
いつもは、ここで動けなくなるのだ。動こうとしても動かないのが、いつもの流れだった。しかし、今回は違った。動けるのだ。いや、ただそう感じているだけなのかもしれない。全てが見えないし、全ての感触もない。しかし、「歩いている」や「何かに触れている」などという実感だけが湧く、不思議な状況。歩ける(という実感が湧く)ことが分かったら、この闇の先が見たくなった。
ひたすら歩いた。歩いているのかすら分からない闇。
ひたすら歩いた。前に進んでいるのかすら分からない闇。
ひたすら歩いた。後退していても気付くことはないであろう闇。
ひたすら歩いた。やっと、光が、遠くに見えた。
光の下に、やっと、たどり着いた。目の前には、闇に紛れるほど暗い扉。そして、光を発するものが扉の上にあった。
「非常口・・・?」
あっけにとられてしまった。こんなところで、見るとは思わなかったものがあるのだから。よく建物の中で見かける、あの「非常口」の表示。こんなところにあったら、誰でも我が目を疑うだろう。
不意に、手がドアノブに触れる。何もそんなことを思ってないのに、手が勝手に動く。まるで、手だけが別の生き物のように。
手がドアノブを握る。背後の闇が、開けるのをせかすように迫ってくる気がする。
手がドアノブを回す。開けてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。
手が扉を押す。頭の中が、真っ白になる。
扉が開かれる。
眩しくて、目が開けられない。
闇が消え、光が溢れる。
光に、やっと目が慣れる。
開けまいと思っても、目が開く。
目に、扉の向こう側の景色が映る。
それは、何か、異様な光景・・・。

「――――――――――――・・・」
声にならない悲鳴とともに、目が醒めた。
目覚めは最悪だった。いつもこの夢を見るのだが、今日は初めて先に進んだ。しかし、扉の向こうの光景が何だったのかは見えなかった。いや、確かに見たのだが、その光景が異様すぎて、頭が理解を拒むような感覚がする。見た光景が、異様だったということしか覚えていない。
そんな不快感を覚えながら、辺りを見回す。
四方を囲む、コンクリートの壁。
その一方には、固く錠で閉ざされた鉄の扉。
そして、その反対側の壁の高いところに、小さな格子窓。
ここは、独房だ。
身に覚えのない罪に問われ、死刑判決となったのだ。刑法第一九九条、殺人罪。十九件の殺人のうち、十六件で立証された。誰が見ても分かるほどきちんとした物証が出てきたそうだ。弁護士でも弁護できないくらいきちんとした物証だと聞いた。
外はまだ暗い。おそらく、まだ五時頃だろう。今から寝ても、眠れそうにない。起きておくことにした。

今日も、いつも通りの日が過ぎる。


カタン・・・――――
今日も、いつもと同じ音で夢の中へと堕ちる。しかし、今日の夢は周りが明るい。見回せる。
どこかのロビーのような、クリーム色のタイルの床。
周りに視界を遮るものはない。
いや、ないというわけではなく、あるかどうかが分からないのだ。
床も、周りも、頭上も、すべてがクリーム色。
床の上が、突然、緑色に変わる。
足元から、はるか向こうへと、道のように緑色の床が続く。まるで、この上を進めと言わんばかりに。
自然と、足が動き出す。
道の上を、
緑色の上を、
歩き出していく。
昨日の夢のように。
フワフワと。
クリーム色一色の風景と、
緑色の道。
ほかには何もない。
ただ、ただ、歩いた。
どれくらい歩いたかも忘れたころ、遠くに扉が現れた。昨日と同じ、暗い色をした扉とその上で光る非常口の表示。
開けたくはなかった。
しかし、手が伸びる。頭の中で、止めろと喚き叫ぶ。
手がドアノブに触れる。夢の中なのか、現実なのか。
手がドアノブを回す。すべての区別がなくなるような感覚。
手が扉を引く。混乱しているという、かすかな実感。
扉が、開かれる。
昨日とは違い、向こう側は漆黒の闇だった。そして、扉を開く時に、昨日以上の恐怖を感じた。
――――――――――――――――――。
扉の向こうに誰かいる。
「よぉ、相棒。俺だよ」
扉のこちら側にいるはずの人間。
外見のすべてが同じ。
しかし、声色が少し違う。
しかし、性格が違う。
同じ外見なのに、まったく違う。
そして、俺の周りには、異様な光景が広がっている。
俺の足元には、血を流して倒れている、かつては人間だったであろうモノ。
俺の手には、鋭く、赤黒く光るナイフ。
俺は、全身が血で濡れていた。
そして、赤黒く濡れた顔で鈍色に光る、鋭い眼。
獲物を見つけたとでも言いたげに邪悪な微笑を浮かべる口元・・・。

目が醒めた。あれは一体何だったのか。気分があまりすぐれない。
外で物音がして、扉が開き、看守が入ってきた。
「おい、どうした、大丈夫か?」
開け放たれた扉の向こうから、ほかの収容者の怒鳴り声が聞こえる。
「ええ、なんともないですが。何かあったんですか?」
「何かあったのか聞きたいのは、こっちのほうだよ。悲鳴が聞こえたから来たんだぞ」
「嫌な夢を見たので、多分そのせいでしょう。覚えていなくて、すいません」
「いや、何もなかったなら、それでいい」
「すいません、今何時ですか?」
「二時半だ。今度はおとなしく寝てくれよ」
「はい」
しかし、眠る気にはならず、一応寝そべったものの、そのままあの夢について考えた。
同じ顔、背格好をした「俺」と自分のことを言う人物。なぜ、「相棒」なのだろうか。あれが、別人格というものなのだろうか、分からない。あの血に濡れた姿、鈍色に鋭く光る眼、忘れることはできない。
もしかすると、俺があの被害者たちを殺したのか。俺が別人格としたら、身に覚えがなくても不思議ではない。しかし、そんなことがあり得るのかも分からないし、そう決め付ける確証もない。確かめたいが、寝るには時間がない。残念ながら、それは今晩になりそうだ。

結局、あれからずっと起きていた。昼間は、睡眠不足で顔色が悪く、看守たちにえらく心配された。それ以外は何もなく、特に変わらぬ一日が過ぎた。ただ、この頭を占める思いを除いては。


カタン・・・――――
今日もまた、いつものように夢に入る。今日は、すべてが闇だった。今日も、動ける。それを確認するのを待っていたかのように、足元が緑色に光る。ぼうっとあたりが緑色に照らされる。しかし、足元以外は、闇のままで、ただ緑色に淡く光る道が闇に浮かんでいる。
今日もまた、歩いた。夢がコントロールできればと思う。
歩く手間が省けたら、どれだけ良いことか。
歩いて、歩いて、またいつもの扉と非常口の表示。そして、いつものように手が自然と扉を開ける。
しかし、今日は恐怖感を感じなかった。昨日のことが気になっていて、いろいろ聞きたくて・・・。
今までとは別の意味で、感情が高揚する。
扉が、開かれる。
光が溢れ、目が眩む。
光の中に人影が見えた気がする。
目が光に慣れても、目を開けようとしても、目が開かない。
「今日も来たか、相棒。早く入れよ」
声が聞こえてから、ようやく目が開いた。
昨日と同じように、全身を血で濡らしている。血に濡れたナイフも。
ただ違うのは、この場所の明るさと、足も音に何も無くなっていること。
それと、向こうに見える、小さな椅子。
「早く来いよ」
その一言で我に返り、扉を閉める。
そして勧められるままに、椅子に座る。
「今日は、俺のことを聞きに来たんだろ?」
確かに気になってはいたが、「聞きに来た」わけではなかった。
「なあ、相棒。これ以上夢を操ろうなんて思うな。もう充分操っているんだからな」
「操れているのなら、こんなに長い時間をかけずともすぐに会いに行けるはずだ」
「会いたいと思って俺みたいな別人格に会えるのだから、充分だろ。それと、ここにくるまでに時間がかかるのは、それだけお前の心の闇が深いからだ。仕方ないだろ」
「別人格・・・?心の・・・闇?」
「そう。別人格くらい、知っているだろう。他に意味はない。心の闇は、自他ともに非認識の自我、というところか」
別人格。
心の闇。
・・・何の事だ。
俺の言っていることが、理解できない。
俺の言っていることが、解読できない。
お前は、俺とは、誰なんだ。
「だから、俺だよ」
混乱。
久々の、混乱。
無意味なことが、頭をよぎる。
こんな混乱は、いつ以来か。
「お前の記憶に覚えのない殺人の罪で捕まったとき以来だ」
混乱する。
すべてが、逆に感じる。
一瞬が、永遠に。
永遠が、一瞬に。
「今日は、もう帰れ」
どこからか、声が聞こえる。
否、傍にいる俺が言っている。
「まだ、聞きたいことがある」
「混乱しすぎている。今日は、もう帰れ。そして、休め」
そして、徐々に意識が遠のいていく。
俺が消え、椅子が消え、すべてが消え・・・。
闇へ堕ちる。

目を開けた感覚がしたが、まだ夜明け前なのか、当たりは闇が支配している。体以外は、何も見えない。コツコツと、微かに足音がする。看守が見回りをしているということは、四時前だろうか。しかし、頭の中はそれどころではなかった。
別人格。
心の闇。
それらの言葉が、頭の中をぐるぐると駆け回っている。
まだ、混乱している。
「混乱している」と認識していることこそ、混乱している証。
だが、だんだん混乱もおさまってくる。
混乱したのはいつ以来かという思いに、俺は「お前の記憶に覚えのない殺人の罪で捕まったとき以来」といった。確かに、俺の言う通り、記憶にない。では、誰がやったのか。
別人格か。
俺か。
いや、俺も別人格だ。そう言っていた。
それと、もうひとつ。最初に俺を見たときにあったあの死体。あれは何なのか、以前に殺した人か、それともただの空想か。今晩にでも、聞かなければ。

そして、いろいろと考えているうちに朝が来た。思考もかなり平常に戻った。いつもどおりだと思っていたが、寝不足のせいか、顔色が良くないらしい。看守たちに、少し心配された。
頭の中は、やはり昨日のことが思い出された。ほとんど、それしか頭になかった。調べようと思っていた、夢をコントロールする方法を調べるころすら忘れていたくらいに。結局、調べられないだろう。これからも、ずっと。


カタン・・・――――
また、この音で夢に入る。一体この音が何なのか、不明だ。そして今日は、俺の言った通り夢がコントロールされているのか、扉の前に立っていた。しかし、その扉はいつもよりも厚く、頑丈に閉じられていた。なかなか開きそうにはない。俺が、辿り着くのに時間がかかるのは心の闇が深いからだ、と言っていたが、今回はさしずめ扉の頑丈さということか。ドアノブを回して引いてみると、鍵はかかっていないようだが、ものすごく重い。そして、閉まるのが早い。普通の扉のように足で止めようものなら、間違いなく足は千切れるだろう。この夢の中で体が千切れたり死んだりしたら、どうなるのだろうか。別人格と本当にあっているのなら、ここにある体は精神で、ここで死んだら精神も死んでしまうのか。これも気になるところだが、とりあえずは俺にあって聞くほうがよいだろう。扉を開けるコツもわかってきた。そして、力を込めて扉を引く。向こう側の景色が垣間見えた。
それは、俺のように殺気立ってはいなかった。
と言うよりは、気配の類がまったく感じられなかった。
しかし、それは間違いなく俺と同じ姿をしていた。
一体、何だというのか。俺は、別人格と会える・・・、とか言っていた。ならば、あれはまた一人の別人格ということになる。何人、別人格がいるのか。もう勘弁してほしいと思いつつも、再び扉を開け始める。すべてを確かめるために。
死ぬ思いで、扉の中に入った。
そこは、椅子もない、ただの広間だった。そこに、俺と同じ姿の人物が立っていた。しかし、眼も鋭くはなく、血にも濡れてはいない。
気配が無いように感じられる。
消している、というのではない。
元から存在しない、という感じ。
不気味、という表現が正しいだろう。
こちらから話しかけなければ、何も話しそうには無いように思える。しかし、その考えとは裏腹に、向こうから話しかけてきた。
「キミの考えるとおり、僕はキミの別人格だよ。だけど、これ以上別人格はいないから、安心してね」
「誰だ?」
「分かっているはずだよ。僕だよ」
やはり、そう言うだろうとは思った。しかし、聞かずにはいられなかった。
「質問したいことが、たくさんあるんでしょ。言ってみてよ」
「じゃあ、まず一つ。最初に来たときに、俺の足元にあった死体は、誰なんだ?」
「うん、良いところに気がついたね。あれは、新しく生まれようとしていた別の人格だよ。これ以上必要ないから、彼が殺したんだ」
「彼・・・俺が殺人を犯す人格なら、あんたの役割は何だ?」
「僕の?僕の役割は、彼の殺人の後処理だよ。彼は、殺すことしかしないからね」
「だったら、記憶に覚えの無い殺人は、俺が殺してあんたが後始末をしたのか?」
「まあ、そんな感じかな。後始末、なんて綺麗なコトはしていないけどね」
「後始末でなければ、何をしたんだ?」
「それはね・・・」
「その話はやめておけ」
部屋全体に、俺の声が響き渡った。部屋にいるようではないし、声が何となくスピーカー越しのように聞こえる。別の所にいるのだろう。
「分かったよ。これを聞いたら、きっと大変なことになるだろうからね」
「大変なこと・・・?」
「そう。多分、気が狂うだろうし、吐くだろうし、その他いろいろと・・・ね」
「聞くのは、やめとく」
「それが、賢明」
「それと、もう一つ。今、夢の中で死んだら、どうなるんだ?」
「死んだ事無いから、分からない」
「殺してやろうか?」
俺の声がする。邪悪な、口に微笑みでも浮かべていそうな、嬉しそうな、声。
「いいね、それ。彼に殺されない?」
僕が声を発する。薄笑いを浮かべて。嬉しそうな、卑屈な、声。
「遠慮しておくよ」
まだ、死ぬわけにはいかない。
「残念だな」
本当に残念そうに、俺が言う。
「せっかく後処理ができると思ったのにな。残念だよ」
僕が、裏切られたとでも言わんばかりに、言った。
「まあ、死にたくないのは分かるけど、どうせもうすぐ・・・」
「言うな。口を封じてほしいか?」
俺が言う。本気で怒っているようだ。
「悪かったよ。言わないから」
「フン」
俺が鼻で笑う。俺の眼はきっと、獲物に今にも襲いかかろうとする豹のように鋭いのだろう。例えるならば、俺は黒豹で、僕はハイエナ。
「何だ、相棒。よく分かっているじゃないか。」
俺が、嬉しそうに言う。
相対するともいえる二つの性格が存在することが、少し怖くなった。
「今日は早いが、このくらいにしておこう」
俺が言った。このままだと、また混乱しかねない。賛成だ。
「じゃあ、またね」
そう言って、僕が手を振った。
それと同時に、景色が歪む。
この体も、歪む。
部屋が、歪む。
そして、音が消える。
僕の口が動く。
聞こえない。
何もかもが歪みの中に消え、
最後には闇と化す。
そして、意識も消える。

目をあけると、薄明かりがする。起き上がって、高いところにある窓から外を見ると、鮮やかな満月が見えた。東向きのこの窓から月が見えるということは、まだ日付が変わる前なのだろうか。こんな時間なら、もう一度寝ておきたいところだ。そう思いながら、再び意識が消える。

そして気がつくと、朝になっていた。起床時間になっても起きなかったせいで、看守に文字通り叩き起こされた。久々に、今まで通りの生活だった。ただひとつ、何となく頭の中がボーっと霞むような感じがするのを除いては。多分、この数日の寝不足のせいだろうが。


カタン・・・――――
今日は、最初から広場にいた。向こうに人影が見える。走って行くと、消えてしまった。気のせいだったのか。そして、上を見上げると、複雑に絡み合う糸が無数に張り巡らされている。
遠くで、あの独特な気配が二つほどした。
走った。
気配に向かって。
何も考えず。
ただ、闇雲に。
走った。
いくらか走ったとき、二人の姿が見えた。
俺が振り返った。すると、次の瞬間には二人の傍にいた。
「遅いよ」
僕が言う。少し怒っているようにも見える。
「仕方ないだろう。今はコイツが躰を操っているんだからな。忙しいのも無理は無い」
俺が言った。「今は」という表現が、気に掛かった。
「昔は、あんただったからね」
僕が俺に言った。今は、という表現がどういうものか分かったが、なぜ今は操っていないのか。
「それは、お前が、創られた人格だからさ」
俺の言ったことが、理解できなかった。
「創られた、人格?」
「そうだよ。お前ら二人は俺が創った人格だよ」
「なっ・・・」
僕も驚いた。まさか自分もそうだったとは、思っていなかったらしい。
「そうだ。そして、こうして創造主に会えているのは、お前たちの役目が終わったということだ」
「役目が終わりって、僕の役目は分かるけど・・・」
「お前の役目は、看守たちに好印象を与えて隙を見つけたり、ここから脱走する糸口を見つけたりすることだ。警察に捕まる少し前に、お前を創った。この性格じゃあつかまったときに厄介なことになるだろうから、一般的な性格を持った人格がほしくてね」
「なぜ、今になって僕が不必要となる?僕がいないと、君は死後処理ができないじゃないか」
「死後処理など、できはしないが、不必要だ。お前のその死後処理のせいで捕まることになったんだからな」
「・・・・・・」
「二人とも聞きたいことはそれだけか?」
「いいや、もう一つ。これからどうする気だ?脱走する糸口を見つけるために作ったということは、脱走でもする気か?」
「いい質問だ。そうだよ、脱走するんだ。看守を殺してね」
俺の顔が、邪悪に歪む。
「じゃあ、糸口が見つかったのか」
「ああ。だから、脱走のためにはお前たちが邪魔なんだよ。だから、俺のために死んでもらう」
そう言って、俺はナイフを取り出した。初めて俺を見たときに、手に持っていた、あのナイフ。あれで、二人を殺そうというのか。
頭の中で、警報が鳴る。
逃げなければ、殺される。
横で、僕が刺された。
「痛みは無い。安心して死ね」
そう言って、こちらにゆっくりと振り返る。
背筋が凍りつき、動けない。
そこで、僕が俺の足を掴んだ。
「に、逃げろ・・・。早く・・・!」
苦しそうに、僕が言った。
僕が、もう一度刺される。
逃げなければ。
間違いなく、殺される。
「そうだよ。お前は死ぬ」
ふと、思い出す。
テレビで言っていたこと。
「運命」は、自分で変えることのできるモノ。
「宿命」は、誰にも変えることのできないモノ。
これは、運命なんだ。
逃げ切って、変えてやる。
「いいや、これは宿命だ。変えることなど、できはしない」
目の前に、扉が見える。
あそこから逃げれば、良いだろう。
絶望の中に射す、一条の光。
しかし、それもつかの間だった。
扉が、厚かった。
出られそうにない。
迫りくる、恐怖。
これが夢であってほしいという、願望。
「これは、夢だよ。ただし、現実と直結しているがね」
つまり、ここで死ねば、現実でもこの人格は消えてしまうようだ。
「ご名答」
肩に、ナイフが掠めた。
確かに、痛みはない。
しかし、心なしか息苦しく感じる。
それでも、全速力で逃げる。
でないと、殺される。
少し、振り返ってみる。
笑っている。
口を片方吊り上げて。
邪悪そうな、嬉しそうな、微笑を浮かべて。
今まで俺に殺された人たちも、こんな思いをしたのか。
これは、まさに、狂気の沙汰だ。
恐怖心が増す。
視界に、あるものが映る。
かつて、僕だったモノ。
今となっては、ただの残骸。
急激に、息苦しさが増す。
胸に、何かの感触。
見ると、ナイフが刺さっている。
間違いなく、俺のナイフ。
足の力がなくなり、地面に崩れ落ちる。
上から、微笑を浮かべて見下ろす俺。
這ってでも、逃げなければ。
無駄な抵抗と分かっていても。
「無駄なことを」
その言葉とともに胸に刺さる、赤く濡れたナイフ。
「そのまま、楽に消えろ」
だんだん、目の前が霞む。
霞むというよりは、景色が徐々に崩れていく。
そして、記憶も崩れていく。
何が、何なのか。
誰が、誰なのか。
分からない。
やがて、景色が崩れ落ち、
記憶も崩れ落ち・・・。
「何かが存在した」という鱗片だけが残った。
それもしばらくして薄れ・・・。


残ったものは、虚無と静寂と血の赤。





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