2月29日

空中遊泳編





また、「あの日」がやってくる。
4年に一度の「うるう年」。
4年に一度の、2月29日。
僕の身近に体験した人がいないから実感が湧かないけれど。
大人たちは、みんなが恐れている。
僕は、学校でこう習った。

日付変更線が2月29日を迎えたとき、日付変更線の位置に上から壁のようなものが降りてくる。
その壁がある間は、そこを通り抜けることはできない。
そして、その壁からは「人でないもの」が出てきて、人智を超えた事件を起こすのだ。
本当なのかはわからない。
でも、テレビでも特番を組んでいるから、本当なのだろう。
でも、やっぱり信じられない。
本当にそんなこと…。
「あるんだよ」
どこからか、声が聞こえてきた。
はっとして、僕は部屋の中を見る。
でも、誰もいない。
そして、時計に目がいく。
いつの間にか、日付が変わって、2月29日になっていた。
「そう、俺は人間じゃない。お前達でいう、妖怪とかそういった部類に近いかな」
しゃがれた、男のような声が言う。
「俺が話しかけたのは、お前の願いを叶えるためだ」
「願いを…叶える?」
信じられなかった。人智を超えた事件のほとんどで、人が死んでいる。
「そう。それが、俺達が4年に一度現れる理由だ」
「俺達…?」
「そう、壁のようなもの――本当はあれ、門なんだけどな――から現れる者達だ。まさか、俺一人しかいないとは思っていないだろうな?」
疑わしい。願いを叶えるはずの者が、命を奪う道理がない。
「もっとも、願いを叶えるといっても代償が必要になるがな」
「じゃあ、人が死ぬのは…」
「願いが大きすぎるから、命が代償になるだけだ。人が死ぬのは、俺だって嫌さ」
それなら、人が死ぬ理由もわかる。
「さあ、願いは何だ?」
「…空が飛びたい、かな」
「…は?」
「だから、空が飛びたい、って」
「いつでも自由に?」
「いや、今だけでいいから。できる?」
「羽は?」
「ん…、いらないよ」
「なら、今すぐにでもできるけど。そんなのでいいのか?」
「うん、いいよ」
「よし、さあ、やろうか」
そう声がしたと同時に、体が浮き上がる。
誰かに抱きつかれている感覚はあるが、誰なのかは見えない。
浮いたまま、窓から外に出る。
視界が、いつもより高く、広くなる。
街明かりが、目前に広がる。
「暴れると落ちるから、それはよしてくれよ」
その忠告に、うなずく。
体に、上空の冷たい風が当たる。
でも、気にならない。
目前の景色が凄くて。
遠くの街の明かりまで見える。
鳥が、自分たちの下を飛んでいく。
気持ちがいい。
夜空には、微笑む三日月。
下で時々歩いている人が、小さく見える。
それを微かに照らす街灯さえも、小さく見える。
数分間の、空中遊泳を楽しむ。
やがて、長く思えた数分は経ち…。
僕はまた部屋へ戻った。
「どうだ?満足したか?」
「うん!」
「しかし、お前も物好きなやつだな」
「そうかな?」
「だが、それが賢明」
「…?」
「さて、代償だが…」
体が、緊張で固まる。
どんな代償なのか。
不安で、いっぱいになる。
「お前の眼を一日だけ借りたい」
「…眼を?」
「そうだ。今日だけ、お前の眼を借りるのだ。その間、お前は目が見えなくなってしまうがな。俺が返しに来たら、また見えるようになるから安心するといい」
「うん、わかった」
「よし、契約成立だな。夜も遅いし、今日はもう寝るといい」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」

そして、朝になった。
言われていたとおり、起きたら何も見えなくなっていた。
お母さんもお父さんも驚いていたけれど、今日は特別な日だからと納得してくれた。
今日は、学校を休んだ。行きたかったけれど、危ないからととめられた。
自分の部屋で、のんびりと過ごした。
空を飛んだときの風景を思い出しながら。
いつの間にか寝ていたが、夢の中でも空を飛んでいた。
夢の中で、声がする。
あの声だ。
「まさか、夢の中でも空を飛んでいるとはね」
「…え?」
「お前の眼を返しに来たんだよ。起きる時には、もう見えるようになっているからな」
そこで目が覚めた。
見慣れた、自分の部屋が目に映る。
…ちゃんと見える。
まるで、今日という日が幻だったかのように。
いつも通りの風景を見ている。
「4年に一度の日なんだ。幻のようなものだろう」
「そうだね」
「それに、俺達の存在も幻のようなものだ。姿を見ることはできないのだろ?」
「うん、見えないよ」
「だが、幻のようであっても、今日のことは忘れるな。今日という日も俺達も、存在しているのだから」
「うん」
「今度、俺みたいなやつに会ったら、今日のことを思い出せ」
「わかった」
「では、俺はそろそろ行くぞ」
「もう?今日はまだ時間があるよ?」
「お前のように暇ではないのだよ」
「そっか」
「じゃあ、もう行くぞ」
「うん」
「会えたら、また会おう」
そう言って、去っていった。
見えはしなかったが、雰囲気でわかった。
でも、もう会うことはないだろう。


あれから、60年が経った。
そして、またあの日がやってきた。
あのときのようなことは、あれ以来なかった。
しかし、ずっと忘れてはいなかった。
ふと、窓の外を見る。
その時、声が聞こえてきた。
「久しぶりだな。60年ぶりか。お前も、年取ったな」
夜空には、全てを眺める三日月。





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